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甲子夜話 三篇 35巻-12 速飯、急糞、迅走

 世の諺に、士(さむらい)は、速飯(はやめし)、急屎(はやぐそ)、迅歩(はやばしり)と云うが、いかにもさも有るべし。
 予が躬(みずから:自ら)のうえにて云はんに、蚤(早)くより歯が落ちたれば、喫食速くならず。遅々時を移す(遅々として進まない)。
 また痔を患ふれば、厠(かわや)に往(ゆき)ても在ること長し。
 また歩行も、その疾(はやさ)をもって迅(迅速)なること能(あた)わず(できない)。
 これらは泰平の今、憂うともせず。されども日時に、遠祖公 法印殿(初代平戸藩主)の朝鮮在陣の記事を観るに、いかなれば七年の間、克(よく)も(克己して)月日を過ごし給いし。羨ましくも、慕わしくも、渇仰(かつごう:仰ぎ慕う)の念は絶えず。
 また彼の三条のことは、故武、加藤清正が云いしことも有りと聞く。何の書にか載りたる、今知るに由(いわれ:由来)なし。
 また就かぬことなれど、小笠原逸阿〔当時の歌人〕が、小川町に往(ゆき)し頃、隣宅が失火せしこと有り。そのときの口ぐさみに、

  隣なりける家より火いでて、
  栖(す:巣)を走りのがるるとて、
                 逸阿

飛ぶ火のの野焼けふりの風さきに、かくろひ(隠れ)かねてたつ雉子(きじ)哉(や)。




     松浦静山のボキャブラリーが際立っています
     早いという漢字がいくつ出てくるか?
     探すだけでも、楽しい・・
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松浦静山  田渕幸親(長崎国際大学)

研究ノート
要 旨
『長崎国際大学論叢』 第8巻 208年3月 127頁~141頁
松浦静山の茶道観 ― 地域マネジメントの視角から―

田 渕 幸 親 (長崎国際大学 人間社会学部 国際観光学科)
平戸藩主であった松浦静山は、隠居後すなわち江戸時代も末期に至るころ、その博覧強記ぶりを遺憾 なく発揮した『甲子夜話』を著している。『甲子夜話』で静山は、見聞したことのほとんどすべてを書 き記した。それらの記述中に若干ながら茶道に関する部分があり、それを拾い出し、研究の便に供する ことが、本稿の課題である。地域文化の把握は、地域ブランド・地域イメージの構築なかんずく地域マ ネジメントのための基本事項であるともいえる。静山の著述である『甲子夜話』は、地域文化の把握に とってきわめて大きな示唆を与えるものである。
キーワード
松浦静山、『甲子夜話』、茶道、地域文化、地域マネジメント
目 次
はじめに I 松浦静山と茶道 II 『甲子夜話』にみる静山の茶道観 III 地域文化と地域開発 おわりに
はじめに
芸道なかんずく茶道のもつ統治機能について は、すでに安部直樹「大名茶の系譜―武辺の茶 の統治機能―」1) において論及されている。安 部は片桐石州に言及し「石州は、寛文5年
(165)、普請奉行であり茶を古田織部と小堀遠
州に学んだ船越伊予(1598~1671年)とともに
江戸城に赴き、4代将軍徳川家綱の所望によっ て点茶式を行い、柳営秘蔵の名物茶器を鑑定 し、懐紙39葉に三百ケ条をしたためて上進し、
柳営茶道の規格を定めた。2代将軍秀忠の茶道
師範であった古田織部と小堀遠州、3代将軍家
光の茶道師範であった遠州と同様に、4代将軍
家綱の茶道師範となったのもこの年であった。 諸大名はこぞって石州の流儀に従った」2) とし
ている。諸大名をして石州に平伏せしめたもの は石州の茶道流儀であったが、それに値する力 が茶道に内包されていたと考えられる。あり方 としては異なるけれども、織田信長や豊臣秀吉 の茶は、そのことを彷彿とさせるものがある。 安部が指摘するように、「信長、秀吉の茶は、権 力者の茶であり、後に続く、大名茶とは一線を 画している」3) ことは確かであるが、茶のもつ 統治機能は、諸大名により、よく認識されてい たといえよう。それが「諸大名はこぞって石州 の流儀に従った」という行動様式を生んだと理 解できる。
とすれば、諸大名の末裔たちは、茶とどのよ うに接し、またどのように茶の道を継承して いったのであろうか。ここではそのような点に
127田 渕 幸 親
焦点を当てつつ、地域観光開発のためのひとつ の有効な手段としての地域文化の掘り起こしを 試み、ひいては地域マネジメントの方向性を確 立するための基礎的作業として、江戸末期に登 場し『甲子夜話』を著した松浦静山にみる茶道 観を探っていくこととする。
なお、こうした視点からのアプローチを試み ようと思ったのは、206年10月14日開催の長崎 国際大学国際観光学会第2回大会における長崎 国際大学人間社会学部国際観光学科専任講師佐 藤大祐の研究発表「長崎における文化層序と観 光資源―地域ブランド・地域イメージの創造へ 向けて―」に、大きな知的刺激を受けたからで ある。ある特定の地域の文化的基層部分が重層 構造をもち、それらが何らかの社会的・歴史的 力によって断層を形成したばあい、それらの形 状を複雑化するが、丹念に地層分析を繰り返す ことにより、ある地域の特質を描き出しうると する佐藤の発表とそこで提出された理念枠組み は、地域文化分析の鋭いメスとしての機能を十 分に発揮すると思える。筆者による佐藤の提起 した理念枠組みの消化はきわめて不十分ではあ るが、松浦静山の茶道観を探ることにより、文 化層序理念の表皮部分に近づきうるかもしれな いというかすかな期待は抱いている。
I 松浦静山と茶道 松浦静山は、宝暦10年(1760)に生まれ、安
永4年(175)、16歳にして封を襲いだ。静山 は、弘 仁13年(82)に 嵯 峨 天 皇 第18子 と し て 生まれた松浦家の始祖融(とほる)から数えて
34代目にあたるし、茶道・鎮信流に着目すれば、 始祖鎮信(天祥)から数えて6代目にあたる。平 戸藩主としては、第9代にあたる。文化3年
(1806)に隠居するまで、30年以上もの間、平 戸藩の舵取りに専念し、天保12年(1841)に没 した。静山の隠居期間は、静山の第3子であ り、静山隠居後襲封し、天保12年(1841)まで 平戸藩主であった松浦家第35代松浦観中の治世 の期間と一致する。わが子観中の治世を見守り
つづけて没したのが静山であった。武芸に関す る造詣が深く、ことに剣の道では心形刀流の達 人であり常静子という剣号をもっていた静山 は、老境に達し、自らの敷いた財政改革の行く 末を見守りつつ『甲子夜話』を綴っていったの である。
静山が藩主となったころの平戸藩は、放漫財 政による財政逼迫が恒常化していた。静山の とった財政政策は、徹底的な緊縮財政政策であ り、計画的財政支出と財政収入の確保を旨とし ていた。しかし静山の意向を実現するための人 材は乏しく、人事刷新も思うに任せなかった。 とはいえ財政逼迫の大きな要因を「参勤交代」 とそれにまつわる出費と認識した静山は、発生 する「国用不足」に対処する対策として、「数 十年来の用途を検討し、毎年運用する資財の数 を調べ、冗費節減によって貯えをつくり、費目 をつくって記載するとともに、月ごとの節度の 数を定めて、その数量を計算し、さらにその年 の貯えを次年の用途にする、という計画をたて た」4) のである。こうして「永年にわたる国用不 足=財政難に対処する具体的な対策が計画・実 行され、これまでのルーズな財政組織が全面的 に改められ、収支にわたって周到な配慮のもと に、計画的な処理がなされるに至った」5) ので あった。
しかし、こうした計画的経済政策や財政政策 の実行には、きわめて優秀な人材を必要とす る。残念なことに平戸藩ではそうした人材が不 足していることを察知した静山は、安永8年
(179)1月20日、藩 校「維 新 館」を 創 設 し、 優秀な人材の育成に乗りだしたのである。天明 3 年 (1783) に は 、「 維 新 館 」 を 城 内 に 移 し 、 静山自らが「大学」を講じるところとなった6)。 静山の「維新館」に託した思いが伝わってくる。 藩主自らが講義を担当するということは、藩主 の治世の方針が藩士の子弟を通して、藩士たち に浸透していくことを意味し、放漫支出に慣れ きった藩士たちの心理を引き締める効果もあっ た。また、20代半ばにも達していない静山が、
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「大学」を講じるほどに、学問に精通していたこ とにも驚きを禁じえない。
さて、静山の幼少のころを伝える文書として 「静山公行実」があるが、そこでは「幼精敏強記、
好文墨、暁古今」と書かれているという7)。幼い ころよりものを書くことが好きで、文墨を好み 古今のできごとに明るかった静山は、文武両道 に秀でる素質を備えていた。「晩年『甲子夜話』 に示されたその博覧強記ぶりは、すでに幼少よ り培われていた」8) といえる。文にも武にも通 じる茶道がすでに武士のたしなみとして広く行 きわたっていたことと考え合わせると、静山も また幼いころより茶の道のたしなみを教授され たと思える。いつのころから彼が茶道を始めた かは明らかではないが、藩主となったときには すでにひととおりのことは心得ていたと思え る。というのも、鎮信流では、流祖以来藩主が 宗家となるのが常であった。したがって、襲封 のときには茶道を心得ていなければならないと 考えられるところから、16歳で平戸藩第9代藩 主となったときには鎮信流茶道作法を会得し、 家臣団の前での点前は別としても、茶を喫する さいの一連の流れは会得していたと考えるべき であろう。静山が礼儀正しい祖母の久昌夫人に 寵愛されていたこともその傍証となろう。
ついでながら、久昌夫人は、静山が襲封した さい、静山に訓戒10条を与えている。訓戒10条 はつぎのようなものであった9)。
一曰敬鬼神、二曰重祖宗、三曰貴容忍、四 曰要和愛、五曰却貨賂、六曰剛志気、七曰 保年寿、八曰鑒毀誉、九曰寛心性、十曰務 慈
静山は、この訓戒10条をよく守り、これを精神 的拠所として、28年間の藩政を全うしたのであ る。この心得は茶道の心得として読み替えるこ とも可能であり、また、この心得をすんなりと 受け入れるだけの素地が静山にあったというこ とも、静山が茶道に習熟していたことをうかが わせるのである。
鎮信流は石州流の流れに属し、その意味では
正確には石州流鎮信派と呼ぶべきかもしれない が、石州流は今日みられるような家元制度を根 幹にすえた一大茶道流派を構成していないにか かわらず、その支流である鎮信流は宗家を有し た流派を構成している。この間の事情につい て、西山松之助は、「支配階級と結びついた織 部・遠州・石州の茶道は、いずれも、大名で あって、宗匠自身が職業茶人ではなかった。そ れゆえに、彼らの嫡流はいずれも、その大名た る本業を継承して、茶道宗匠としての文化的血 脈は受けつがなかった。つまり将軍御師範とい う宗匠ではあったが、いわゆる職業茶人ではな かった」10) と、隆盛を極めたにかかわらず、石 州流が一大流派を形成しなかった理由を述べて いる。「諸大名はこぞって石州の流儀に従った」 のであるが、なぜ高級武家たちがこぞってその ように振舞ったのかについて、西山は「無目的 なあそびのわざとして行われる茶技というより も、茶会をもってさらに別途の外交的・政治的 手段にしようとする意図があり、大名やそのと りまきの高級家臣団は、そうした重要な契機と なるかけ引、とり引の場から除外されないため にも、あるいはまた千載一遇の好運をつかむた めにも、茶の湯のたしなみは必要欠くべからざ る世渡りの術と考えられた。身分の低い者も、 その技に熟達すれば見出されて立身出世の道を 求めることもできたとあっては、将軍の師範で あった織部・遠州・石州らの門に、武家たちが 殺到した」1) と分析する。しかもこれら茶匠た ちを家元としてみたばあい、「彼らは千利休以 来の正統血脈の茶人であり、一世に名をなした 大宗匠であり、多数の門人をかかえており、秘 技秘伝の相伝・皆伝の許状発行していた茶道の 権威として、いずれも立派な家元と考えられる 存在である。けれども彼らの相伝・皆伝形式は、 いわゆる完全相伝形式を踏襲したものであっ て、遠州なり、石州という家元個人が、あらゆ る免許秘伝の最終相伝権を独占するという形式 が、ど こ に も 見 当 た ら な い」12) と い う 特 徴 が あった。ではどのようにして茶技の命脈を継承
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松浦静山の茶道観― 地域マネジメントの視角から―
田 渕 幸 親
していったのかというと、石州流にあっては、 片桐家の家老であった藤林宗源がこれを伝え、 代々藤林家が受けついでいったのである。石州 流宗源派もしくは宗源流はこうしてできあがっ た。広島の上田宗箇を流祖とする上田流の形成 は、やや複雑であるけれども、上田宗箇自身が 茶道指南することはなく、「茶道預師範」をお き、茶道を教授した。「片桐家や上田家は宗家 として存在はするが、別に師範家というのが実 技指導を担当した」13) のである。松浦家もまた 同様の形式をとった。「石州流にあっても、多 くの分派が成立派生した江戸中期以降に及ぶ と、他流の流勢やその形式に触発されて、それ ぞれの分派の最高権威たちが、その周辺の弟子 たちの運動にも対応しつつ、在来の師弟一代相 伝形式を、一子相伝=父子相伝の形式に改め、 ここに世襲制を確立した宗家または家元による 統一茶道社会を構成するものもあらわれてき た」14) とはいえ、松浦家のばあい、明治維新を むかえ鎮信流茶道中興の祖といわれる松浦心月 が登場するまで、そうした動きはなかった。鎮 信流では、心月以降ようやくそうした家元制度 が確立するのである。
したがって、松浦静山も「茶堂」という茶道 指南役を擁した宗家であったことは疑いない。 剣の道に比して茶道には熱心ではなかったかも しれないが、茶道に対する憧憬は、静山の心の なかにはあったとみるべきであろう。ともか く、藩主となった静山をとりまいていた茶道の 状況は上記のとおりであった。
II 『甲子夜話』にみる静山の茶道観 隠居して15年後の文政4年(1821)ごろ、松 浦静山は大著『甲子夜話』の著述にとりかかっ た。彼の興味は多岐にわたり、珍しいものがあ れば見なければ気がすまなかった。厖大な著述 である『甲子夜話』ではあるが、茶道に触れた 記述は比較的少ない。しかし、静山の茶道観を 知るうえでは、それらを丹念に拾い出す必要が ある。ここでは、静山の茶道観を知るための方
途として、茶事について触れていると思われる 箇所を拾い出してみることとする。なお、漢文 中の訓読点は省略した。
「松平出羽守隠居、南海と称せしは、茶事に名高 く、且華奢の人なり。出入の坊主衆某も、茶事 に達したるを以て、常に懇遇なりしが、或時某 が別宅へ日を訂して茶讌に赴んと、南海約せら れければ、茅屋の光輝これに過ずとて、某喜で 諾す。その別宅は東山の根岸にありける。其日 に及び、約期違はず南海訪問せられしに、門も 鎖し住居も閉戸して塵も払はず。従臣門番人へ 尋れば、一向に知らずと答ふ。従臣の中の一 人、かねて某が茶室に至りし者ありて、自ら路 次に入りて見れば、蛛網樹枝に纏ひ、通行すべ きやうも無し。扨は日を誤訂したることよと て、君臣とも興を醒して、門を出行く。この時、 小路の横径より、某蓑笠の形にて網を肩に掛 け、従僕両三、大なる桶を荷ひ来り、南海を見 てこはいかにと云ふに、相共に驚き、今其宅に 至り、しかじかなれば帰る所なりと云。某恐 して、今朝より荒河へ鯉打んとて籠りしが、生 憎不猟にて遅刻し、無興なりしことを頼りに陳 謝し、何とぞもとの宅地に戻り玉へと乞へば、 南海も止事を得ず、さらばとて立返らる。某先 に立案内して、今度はかねてありし住居より、 畑を超、遥か奥にて、樹竹生茂れる蔭に、新に 設たる路次へぞ案内しける。飛石は新らしき土 俵を以て、おもしろく道を取り、手水所は白木 の湯桶にて、数奇屋一切新規に造作し、其席に 入れば、白木爐ぶちには釜かゝりて、はや勝手 口より某茶具を持出るに、水指も建も皆白木の 曲物。茶碗を始め陶器不残皆其所々の今焼に て、茶を勧め、会席のときの椀も、皆陶器にて 土器蓋、膳盆の類、悉皆白木造りにして、鯉一 式の料理組なりしには、流石の南海も、意表に 出て驚歎せられ、尤も興に入りしとなり。」15)
「紀の藩中に千宗左と云あり。京に住して利休
の末なり。享保の頃関東に召され、其家伝せし
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真台司の手前を上覧あり。御暇のとき御茶 を 下さる。宗左発足の前、相率たる従者を還し、 御茶 を袋に納め、自ら首に懸て、僅に残せる 僕一二人と発す。京の家内門人の輩、先立帰着 せるものに其事を聞き、宗左が帰を待つ。不日 にして宗左帰り、江都の云云を話し、恩賜の御 茶 を以て、一会を催さんと門人に云ふ。因て 門人等、茶室露次を洒掃して、事既に成れども 来客誰と云を不知。故に誰をか招く給ふと宗左 に問へば、妻を客とせんと云。門人妻に告ぐ。 妻驚て辞退す。宗左曰。辞すべからず。我は此 家に聟養子として入り、其方は先人の女なれ ば、家の統は其方なり。吾祖先の余薫に依り、 今度の大恵を蒙ること、其下は汝が身に由れ り。然れば祖恩に報ぜんには、其方をぞ客礼に て待遇すべし。必辞すべからずと云。妻も其理 に伏し、会席に赴く。宗左彼の御茶 を上器と し、妻を一客とし、茶礼式の如く畢り、御茶 は門生等にも示さず、其まゝ匱蔵せりと。宗左 が為人かくの如し。信に祖先の利休に恥ずと云 べし。」16)
「千宗左召に因て江都に出るの間、紀邸の長屋
に寓し、茶器を求めて客中の用に当たるが、皆 悪極たり。就中水さしの水を度々かゆるは煩 しとて、僕に命じて大なる水瓶を銭三百文に買 て、これを炉辺に置て用ひたり。其瓶に不性者 と銘題しけり。暇を賜り発足するに及で、門人 所置の茶器を乞需む。宗左これに応て配分せ
り。門人輩謝儀として方金一二三思々に贈る。 時に宗左僕に謂て曰。嚮に汝に与ふと言ふ。僕 拝受して退かんとす。宗左が曰。待べし。かの 瓶は我もと三百文を出せし者なり。三百文は返 すべしと云て、其中銭三百文を取り、残りの金 は皆其僕に与しとなり。」17)
「宇治茶の名品初昔、後昔は世の知所なり。然
に上林六郎の年々献品二種のうへに、ばゞ昔と 云を献ず。これは神君の御時、六郎の祖掃部允 の祖母[六角祥禎の女なり]の摘ところのもの
其制よかりければ、神君戯にばゞ昔と仰ありし より、至今祖母昔とて献ず。又神君、かの祖母 に若林と云処を茶園に賜り。因て今其処に産す る茶と雖ども、余家は此称を以てすることを許 さず。別に若林昔など称呼すと云。」18)
「細川三斉は茶事の好すぐれて、名物の茶器も
あまた所持なりしとて、堀田加賀守正盛の威権 専なりし時、茶を好みければ、某をして秘蔵の 道具一覧したきよしを申入たり。三斉諾して日 を期し、正盛を迎へ種々の馳走畢り、いざ道具 をと物数取出したるが、皆武具なりける。正盛 かねての所存に違ひ、いと不興なりしかども、 さあらぬふりして厚く謝して帰りぬ。後日某参 りていかで茶器を見せ玉はざりしと申ければ、 三斉、いやとよ、加州が道具見たきといはるゝ よしぞ此通せしにあらずや。凡武家にて何の道 具と斥ずして単に道具とのみいふは、武具なら ずして何をいふべきと答へしとぞ[林氏覚書抄 出]。」19)
「今の障泥の形は昔と異なり。織田右府の前に
千利休候せし時、そこの物好に障泥の形切て見 せよとありけるを、立入らぬ道いかゞと辞して から、即座に紙形を切て呈す。右府これは出来 たりとてほめありし。其後詐りてかの紙形を失 ひたれば、又々切れとあるに、又呈しけるに、 形前と少しも違ひなかりしかば、殊の外賞歎せ られて、遂に其形に極りしとぞ。今は世こぞり て用ゆる常式となりて、誰の製といふこと知る ものも稀なるべし。まゐて昔の形知るものはな を多かるべからず。」20)
「茶会と云もの、昔は風流の一つなりしが、今は
至俗のことゝなれり。定家朝臣の小倉山荘の色 紙の中を、昔境の商家の富有なるが、八重葎さ びしき宿の歌書しを持けり。その家にて茶会催 して、紹?を招たりしに、折しも秋なりけり。 紹?其家に至り、露次に入て伴ふ人々に曰。我 かつてききぬ、此主人の家に定家卿の小倉の色
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松浦静山の茶道観― 地域マネジメントの視角から―
田 渕 幸 親
紙、八重葎のかきしあると云ふ。今日かならず 床上に掲ぐるなるべしと云ふ。人々心得ず、室 に入りしに、はたして八重むぐらの歌かきし色 紙なりしかば、人奇異の思ひをなして、此事い かにしてしり給ひぬと?に問ひしかば、されば 主人も茶にすきたる人なり。然るに会集を催し ながら、庭木陰の落葉をも、霜がれの草をもは らひもせず、たゞ其まゝにありしは、彼歌の心 うつりて、物さびしきありさまなりければ、床 上にかくる所、かならず此歌なるべしと知り侍 りぬと云ふ。?が心のおのづから主人の心にひ とつに相感ぜしに、人々歎じあへり。是小倉の 色紙、茶の会に用ひし始にて、これよりぞ此道 のすき人もとめて、かしここゝにも、もてはや しければ、かく価も増したるなり。此?が名誉 なりと云ひ伝へ、ことには、此色紙を翫ぶはじ めなれば、ことに八重葎の歌、価いや増りたり と『老談一言紀』に見ゆ。又聚楽にて、関白秀 次、小倉の色紙をもとめ得たまひ、御坐敷をあ らため、色紙をひらきの御会あり。利休を上客 として相伴に三人あり。頃は四月廿一日余り、 暁がたの事なりしに、風呂の御茶湯なり。人々 坐敷入ありけれども、短檠の火もなく、釜のに へおとのみにて、いかにもしづしづとしたる様 躰なり。いかなる御作意ならんとおもひ居ける 折柄、利休の居られしうしろの障子、ほのぼの とあかるくなるを不思議におもひ、障子をあけ られければ、月影あかく、御床のうちにほのぼ のと移りけるまゝに、さればよと思ひにじりよ りて見れば、小倉の色紙の御掛物なり。その歌 に、
ほとゝぎす鳴きつるかたをながむれば
たゞ有明の月ぞ残れる とあり。誠に折にふれおもしろきこといはん方 なし。其時、利休その外の人々、さても名誉不 思議の御作意かなと同音に感ぜしと。『備前老 人物語』に載せたり。これ等こそ面白きことな り。今小倉色紙の掛物といへば、価の貴を誇る 一つとなり。その他すべて茶器と云物、みな高 価を互に衒ふことゝなりしは、風流も何も無き
ことゝ成果ぬ。何ごとも本を失ひ、末に流るゝ 世の習し、豈茶会のみならんや。」21)
「『常山文集』付録曰。明年五月移居於久慈郡大
田郷西山。闢榛莽依巌谷、不設墻垣。茅屋衡 門、不異斉民都邑之居。自称西山隠士、世称西 山中納言。侍臣僅数人。多取老 不堪事者、婢 妾纔給灑掃。 食澣衣居常晏如也。幕府或賜黄 金綺幣、則分給親族侍臣、絶無 余。雅好茶会。 至是不復挙。曰。好之使人萌器物之念。四序優 游、詩酒放懐。巡行封内、賞賜孝子節婦、奨論 読書識字者。或至寺祠、正本縁斥傅会、或教民 人以稼穡芸殖之法。又『続本朝通鑑』曰。天正 六年八月、信長軍旅之暇、有好茶之癖。嘗謂武 井夕庵曰。佐久間正勝嗜茶甚過。其伎抜群、然 武人所不欲也。夕庵対曰。方今好茶者則必玩古 器而喪志。故怠於武事其蔽趨利欲。可戒之。唯 以啜茶為念、不拘器具、則外邪去、其身潔而其 心亦清。君其察之[『校書余録』]。古人茶を論ず ること既に斯の如し。」2)
「豊太閤の北野大茶湯のことは諸書に見ゆ。此
頃予が角力、錦、上京して北野松梅院開扉のこ とあるに値ふ。其時宝物とて人に見するものゝ 中に、大茶湯の場に竪し制札あり。乃写して還 り予に示す。其文。
来る十月朔日、北野松原におゐて茶の湯興 行せしむべく候。貴賎によらず、貧富に拘 はらず、望之面々来会せしめ、一興を催べ く、美麗を禁じ、倹約を好み、営申べく候。 秀吉数十年求置候諸具、飾立置べく候条、 望次第見物すべき者也。
天正十五年五月八日 其文。
御定之事 一、北野之森におゐて、十月朔日より十日
之間に、天気次第に御茶湯被成べき御 沙汰に付て、御名物共残らず相揃させ られ、数寄執心之者に見せさせらるべ きため、かくの如く相催させられ候
132
事。 一、茶湯執心之者は、若党、町人、百姓以
下によらず、釜一つ、つるべ一つ、の み物一つ、茶はこがしにてもくるしか らず候、引さげ来しかるべき事。
一、座敷の義は松原にて候条、畳二畳。 但し侘者はとぢつけ、いなはきに而も
苦しからず事。 一、遠国之者迄見せさせらるべき之儀、十
月十日迄日限御延被成候事。 右は仰出され候義、侘者をふびんに思召候 処、此度罷出ざる者は向後におゐてこがしを もたて候義、無用との御異見に候。罷出ざる 者の所へ参り候族までもぬるものたるべき 事。
但遠国之ものによらず御手前にて御茶下さ
るべき旨、仰られ候事。 奉行 福原右馬允 蒔田権介 中江式部大輔 木下大膳亮 宮木右京大夫 この札檜材と覚しけれど、年古煤汚して分ら ず。且年号を記せし方、更に古色あり。文字 隠々と隆起して、余は剥落す。雨露にさらす者 の如し。一枚の方は然らず。〈図略〉
『豊臣譜』云[羅山撰]。天正十五年五月、秀吉 陣于薩州。島津義久降、秀吉宥之。西州平。七 月、秀吉出筑前箱崎。同月十七日、遂帰大阪。 勅使来慰労之。秀吉移居于聚楽。使秀次居京都 邸。又云。十六年十月、秀吉於北野松原催茶 湯。為見都鄙好茶者之風情、茶器之好悪也。先 是標命書於処々街市、使預于北野茶湯。故京都 泉堺、遠近嗜茶者、大喜咸来と。是にて観れば 薩摩の軍終り、七月京に帰るの後閑あるゆゑ に、八月に至り、茶会の挙ありしなり。因て標 書の文に、十五年八月を以てすれど、茶会あり しは十六年の十月なれば、その札の剥落せし も、期年に過る風雨を経し故なるべし。」23)

「伊沢辞安[福山侯の医。博学の人]が話に、 抹茶は能く諸毒を解す。明礬も亦おなじ。或と き某の寺内に、竹林ある処蛇多く栖む。その地 に蕈生じたるを、三人して采食ひければ、即時 に大腹痛して悶乱す。その中一人は恒に豪気な る者ゆゑ、彼の邸までは還り、吐血しながら辞 安が所に到り、治を乞ふ。安これを聴て、即抹 茶に明礬を合て服せしめしかば、吐血は止で、 瀉血せしが、遂に腹痛歇で、尋で平愈せりとぞ。 奇効の物なり。」24)
「田安黄門殿[斉匡卿]は一橋より養子と成ら
れし方なれども、能くも故悠然院殿[田安]の 流風余韻を受られし資質なり。此頃文墨の用あ りて近臣を我が許に越れし折から、茶室の壁書 を示さる。何にも善くできたる面白きことども 也し迚、その書を窃に林より又示しけるを読誦 して、感服の余こゝに写し訖る。
松月斎茶令 一、茶の道は質素を主とし、風雅を客と
し、まごゝろのもてなしあらば、万の
みやび尽したるにも増りぬべし 一、おのれ好む所とて、わりなく人に勧 め、己れがくむ流もてよそ人をそし
る。いずれもあさましかるべし 一、物しる人のおのづから風流なる詞いふ はめでたし。なまじひにまねびいふは 拙し。時めく人をねたみて、其あしき 事のみあげ、富る家うらみて其宝をか ぞへ、あるはへつらへる、あるはほこ れる、又価尊きものを賤しく得つとい ひ、賤しきものを貫くもとめしと語
る、いづれもあしゝ 一、書画調度ふりたるを慕ふとも、いたく
耽り翫ばば志を喪ふるに至りなん。飲 食瓶花も時ならざるをめづることなか れ。異ざまなるを好む事なかれ。調度 もまたしかなり。何事も偽りかざらぬ さまこそよけれ
一、おのづから風流なるこそ真の風流とす
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松浦静山の茶道観― 地域マネジメントの視角から―
田 渕 幸 親
べし。つとめて風雅ならんとするは、 なかなかに山の井の浅きこころみら るゝわざなるべし
こはおのれ松の風をきゝ、軒端の月にうそぶ き、壁眼をこゝろむるとて、何となく心に浮び 思ひ出らるるまゝを、みづからしるし自ら警む るになん」25)
「赤穂義士の吉良邸夜討は、元禄十五年十二月
中旬のことなりし。此夜のことを予が中に云伝 るは、天祥院殿本庄荘に退老ましましたるに、 夜半過し頃遙に鼓声聞こゆ。侍宿にある者ども 起き騒ぎ、こは火事ならんと言しを[この頃は 世上に版木と云はなく、火災のときは皆太鼓を 打て、これを告知らせたることなり。今に弘前 侯ばかり昔を存せり]、殿の曰ひしは、いやと よ、火事にはあらじ。甲州の押太鼓なり。心得 ぬことなり。人を出して視せよとありければ、 人即往たるに、果して大石の輩(大石内蔵助は 山鹿甚五左衛門の門人。頗奥秘を究む。天祥院
殿と同門なり)、吉良屋鋪に人数を寄る太鼓な りしとぞ[殿は時に御年八十一。翌十月の初隠 れたまひぬ]。このこと藤屋鋪に伝るは[藤屋鋪 とは、予分家和州の居邸なり。昔は白藤の架あ りて、前川に臨めり。因て称す。今は然らず。 この故は別に述ぶべし]、右は天祥院殿にはま しまさで、彼家祖万松君のこととす。この時万 松君、年五十二、未だ在職なりしなり[宝永七 年退老す]。後和州の邸に宴ありて往しに、石 虎と云へる軍書の講釈する者来りて、これと相 話せし中、予前件のことを伸て、かゝることを 知りて有るにやと問たれば、勿論聞き及び侍り ぬと云其答はせずして、この御邸の祖君は茶は あそばし給ひしやと云ゆゑ、予云には、子孫と て百年上のことは委しくは知らず。されども父 鎮信、茶事に高名なるほどなれば、其子として 嗜まざることやあるべきと云へば、夫にて思つ き候ひぬ。某ことは雲州様[松平出羽守、退老 して不昧と号す]の御懇意を蒙り、雲州へ十一 度往たり。その中、彼藩の大夫大橋茂右衛門
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[この人大知にて一万石を禄する家と云]と云 が、宅へ君侯を招じ茶事ありし中、茶匙を拝見 す。その匙は松浦退入殿[万松君、称織部、名 昌、退老して退入と号す]の作と云て、その銘 に夜打とありたり(この匙、人に与へられし者 と見へ、夜打と銘ぜし。外に人名を書せられし が、石虎今は忘れたりとぞ)。其故は、この茶 匙、元禄年間義士が夜討せし夜の作にてありた れば、折節のこととてかくは銘ぜられしと申伝 へたりと。始め持主は賈人炭屋宗全と云し者な りしが、大橋氏購求せしとぞ。この話に拠れ ば、前の両端の云伝へは、藤邸の祖万松君のこ とに定むべし。」26)
「頃日或僧の咄に聞く。猷廟の寵待ありし東海
の沢菴和尚は、もと遠流に処せられしを、柳生 但州の上言により召還されて帰参す。このとき の狂歌に、
上意ゆゑ還りたく《沢》菴思へども おえど《江戸・穢土》ゝ聞けばむさし
きたなし (《 》は脇字―田渕) 又沢菴、御茶の御相手に出しとき、御釜の沸湯、 蓋の辺より滴るを、将軍様御覧ありて、
てき《滴・敵》がおつる《落》おつると上 意有けるに、応じ奉りて、 ひつ《引》く《汲・組》んでとれ《捕》と れと云たり。その敏捷この如しと。
林子曰。これは嶋原の陣のときのことならん と。何かさま左もありぬべし。
『延宝伝燈録』云。慶長十四年春出世大徳、 住山三日。 退鼓而返泉南。豊臣秀頼公及 一時侯伯、招請累至。師皆不赴。寛永六年 秋、依大徳出世之事貶于羽州。謫居四年、 鈞命赦還。大将軍家光源公 東海寺、命師 為開山祖。」27)
「清商の渡来する者、舶中にて阿片たばこと云
ものをのむ。これは阿片をねりしを、煙管の火 皿の所につめて、火をつけて煙をのむなり。阿 片はしむる性のものにて、睡を催すことなし。
因て洋中にて、按針役の睡らざる為にかくする とぞ。出帆のときのめば、入港まで睡ること無 し。されどもこの煙を吸ふこと分量ありて、分 を過ごせば絶倒して害あり。又按針役は三四年 の内に死するもの多し。皆阿片の毒にて別病を 引出すと云。
『本草啓蒙』云。阿片。罌子のやに、罌子の 実、或はつぼみを刺て其汁を採り、聚かた めたる者なり。林子曰。さにはなく、けし の実の房になりし時、その房を刺して、液 の出るを採り集るなり。
又萩の漢名を胡枝子と云ふ。諸『本草』には見 へず。たゞ『救荒本草』曰。胡枝子、俗亦名随 軍茶。又曰。採嫩葉蒸晒為茶煮飲亦可とあり。 先年何書にてか、随軍茶は、従軍の人夜守など をする者、この茶を飲めば目醒て睡ることな し。因て戍卒などの用ゆる物ゆゑ、此名ありと 云こと有しが、今出所を忘れたり。」28)
「御数寄屋坊主谷村可順は、持前のことながら
茶事に志厚く、石州の流意をも く皆伝せし者 なり。或日宴席にて面会せし折、懐中の書片を 出し示す。視るに年々宇治へ御茶壺御用迚、御 数奇屋組頭の往来する来歴なり。曰。 御茶御用は、権現様台徳院様御代より被仰付大 猷院様御代寛永九年初而御茶壺上る。其頃は御 茶道頭、同組頭、同平共、六月土用五十日程前 に発足し、御茶詰畢る。御壺は京の愛宕山に差 置、罷還[この訳を問へば、冷気の処に置かざ れば、御茶損ずる故といふ]。百日程過て復上 り、持下る。 厳有院様御代、承応元年より愛宕山は止みて、 木曾路下向、土用一両日前に甲州谷村の城え納 置、罷還[此処は郡内領なり]。秋に至り立越、 持下るといふ。
但寛文年中、甲州と江戸と御茶持方御吟味 有之所、江戸は色悪敷相成候由に而、前々 之通谷村へ被遣候。
元禄元年再吟味之上、甲州谷村は被止、江戸富 士見三重御櫓え被差置、自此唯今に如此。
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松浦静山の茶道観― 地域マネジメントの視角から―
田 渕 幸 親
可順曰。前に御茶道頭と見ゆるは、其頃は有し 役にて、桜井宗伝とて御茶道頭高八百石とか。 此家今は滅知せられしが、両番の中に存せり と。 又一證を獲たり迚示す。沢菴和尚の文なり。其 文車
懸御念早々被持給候。以面上御礼可申入 候。 従郡内御茶壺参候故、愚老壺同時に参、即 被持給候。毎年御苦労に罷成候。松平伊豆 守殿御状被相添候。御報相調候而、自是直 に可致進上候。愚老儀先月致湯治、去十八 日に令帰寺候。路次草臥申候而、引籠居申 候。近日懸御目万々可申入候。恐々謹言。

御代は治る、御物は詰まる、猶もうへ様末 繁昌 御茶をつもなら宇治上林、間にながるゝ水
宇治の橋には名所が御座る、籠て水汲む是 名所 目出た目出たの若松様よ、枝も栄て葉も繁 る
右の唄、其旨今考ふべからず。
因に『都名所図会』の所載を移写す。 『図会』に云。都の巽、宇治の里は茶の名産にし て高貴の調進年毎の例ありて製法他境にならび なし。山吹ちり、卯の花咲そむる頃、茶摘とて 此里のしづの女白き手拭をいたゞき、赤き前だ れを腰に飜して茶園に入り、声おかしくひなび たる哥諷ひて興じけるさま、陸羽が『茶経』に
は書遺し侍る。」30)
「予が若冠のとき、木下肥後[利忠退老して号長
九月廿二日 宗伝老 貴報 宗伝は、迺桜井氏なり。」29)
136
「又可順は、年として宇治へ往くゆゑ、彼地の婦 女が茶摘の唄とて語る。左にしるす。
及]は予が叔母の夫として、 々頼て登営の介
をも為たり。この木下の知己にて、片桐石見守 [貞芳]をも時としては頼みたり。石州は、四十 余五十にも及ばん人にて、予が邸に来ても、天 祥院殿とは、先祖も外ならぬ因縁も有りし抔語 れり。此人或とき着服の紋所に、円さ二寸とも 云べき中に、鵞の翼を張て立たる形ちあり。傍
客に語るには、これは家に由緒ある紋所にし
キモノヽモン
て、時としては服章に用ゆること有りと語りし
も、先年の久しきやうに憶へたるを、近頃一斎 [佐藤捨蔵]と談ずること有て隠荘に招たるに、 彼の紋服を着して来り、晤話の中自から云ふ。
今の片桐侯の[この片桐侯は、名貞信、石州貞 芳の孫、文学あり。一斎の門人]賜なり。侯語 る。これ祖先に豊太閤より下されし所にして、 豊閤紋服の伝はるなりと。」予此に於て、始て其 由緒を知れり。一斎又曰。窃に思ふ、この円形 は日輪の象にして、日光の及ぶ所の表なるべ し。鵞は我にして、鳥は取なれば、天下は皆我 が執ところと謂ふ表章ならん。」予聞て其言を信 とす。」

其頃骨董の老退せしに、竹本五兵衛なる者、善 く鑑識す。この器を問ふ。曰。貴邸御家蔵の物 とせば、御作疑ふ所なし。又他より今御蔵と為 られし者ならば、御銘もなく、御押字も有らざ れば、定めては言難けれど、筒の竹と時代とを 鑑するに、正しく公の御頃と云べく、且亦合恰 の所、凡人の制造とは見へず。殊更に賞すべ し。又この外箱も、石州流の制なれば、多分公 作に違はずと為べけれど、前条に因れば、今必 定を極がたし。
又、荻長何に拠てか言けん。外蓋の銘は柳沢 侯吉保の筆なり[吉保は憲廟の御時執政たりし。 寵専の権家たり。其名世に聞ふ]。其嚮に見る 所と合ふ。予因て、このことを古筆了伴に謀る に、答ふ。この箱銘は未だ見ること無き者也。 故に誰なるを審にせず。予因て吉保の筆かと問 へば、曰。吉保更に高名とも云べからず。ゆゑ に古筆家には、是まで鑑定に与らずと[如斯き ときは、徳祐公の御名の高き、吉保の上に出た り]。迺思ふ。二子和州が妻は、吉保の後、保光
[甲斐守]の女なれば、憑て花筒の銘は先公の書 なるやと問ふに、然らずと答たり。さすれば吉 保の書には非る也。
是等に因て考れば、この花筒は、吉保、徳祐 公退老の後、公の茶事に高名なるを以て、これ を需て造り給ひし者なり。何に拠てこれを知 る。『家 譜』及『藩 翰 続 譜』を 按 る に、公、素 願を達し、雁間に入られしは貞享二年にして、 又奥詰と為られしは、元禄二年[己巳]三月な り。又公の致仕、雄香公継で奥詰と為られしも 同年なり。吉保は、前年始て万石の大名とな り、御用御取次に加り、自是日の将に昇んとす

31)
「何れの年にてや有けん。或人の云しは、旅食 町なる骨董肆に、徳祐公所作の花生と題せるも の有り。購して還る。迺上るとて予に示す。視 るに、箱蓋に記す。
松浦鎮信翁 置筒 松浦円恵公御作置筒(○箱蓋の裡に記す) 猶々庵
(○押字如此。是は後に記せし所なり。説下に 記す)因て其花生を見るに、図の如し。
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松浦静山の茶道観― 地域マネジメントの視角から―
田 渕 幸 親
るが如し。故に公の時に高名なるを以て、己れ
が権勢に乗じて、これを乞し也。見つべし、鎮
シゲノブ
信翁と有るは、老年且つ致仕の称なり[鎮信は 公の諱なれど、退老の後は、字音を呼んで、隠 居の名と為られしこと、『家譜』に見ゆ、然れ ば鎮信翁と表題せしは、公退老後の物たる知る べし。公時年六十八、又翁と称する所以なり]。 又傍ら己れが時態を以て、貴称に及ばず。斯く 称せしこと、其時状見るべし。公も亦、彼が威 重あるに対して、自から謙遜の意を抱き、銘も 無く押字も書せられざる也。是亦時態人情を推 て察すべし。然れば必ず箱の外銘は、吉保の自 筆と云に因るべからず。祐筆に記せ使んも亦宜 し。又或は、人、予が憶断に因て是非すると為 んが、箱裏の記に、松浦円恵公作[円恵、徳祐、 共に公の法号とす]置筒と記す。然れば銘押無 しと雖ども、公の作なること疑を容れず。又、 猶々庵其人を詳にせざれども、其書体、今時の ものに非ず。或は公の時、又は後の茶人の輩な るべければ、此無銘の物を、伝承、或正品とし て、斯く記せしなれば、今断じて公の旧作、吉 保の需に応じて作られし者と、決定せしこと然 り。」32)
「又或年、坊間に於て一箱を獲たり。蓋上に銘 して、松浦花入と篆書す。甚拙なり。箱中の物 を視れば、一重切の花生なり。

予迺古筆了伴に憑て、この書を鑑せ令るに、極 札に云。妙法院宮堯然法親王、一重切花入、松 浦、かすみしく哥一首、銀粉字正筆、相違無之、 寅(天保元年庚寅)二月。又『諸門跡譜』に、 妙法院御門跡堯然法親王、寛文元年閏八月寂、
六十歳。屋代弘賢曰。堯然法親王は、後陽成帝 第六の皇子にして、座主三ヶ度の宮なり。
又『家 譜』に 云。延 宝 元 年[癸 丑]、徳 祐 公 年五十二、近来好茶礼、為閑居之楽。与片桐石 州親昵。二年[甲寅]、公年五十三、去臘石州卒。 遺言使家臣藤林氏、伝授茶礼於公。」これに拠れ ば、妙法法王の薨る、片石卒るに先だつこと十 三年[法王薨ずる年、公年四十]。又、家蔵『茶 湯正統伝』の所載は、片石州の統系、一を堯然 法王とし、二を会津の正之とし、三を藤林宗源
[石州の家臣。前に見ゆ]とし、四を稲葉丹後守 正通とし、五を清水道漢とす。而宗源の系、一 を酒井日州忠能とし、二を徳祐公とし、三を村 松忠村[家臣。今の老臣、豊田隼人助の祖先な り]とす。然るときは堯然法王は、石州の高弟 にして、公の相伝よりは先輩の御方なり。因て この年代を以て考ふれば、公と法王とは卑高と 云ひ、居処も隔遠なるべければ、其同弟の故を 以て、公の領邑より、京師までかの手作を請は れしなるべし。因法王、かの和哥を題して酬は れしか。彼哥意を以ても推知るべし。蓋しかの 哥は古詠ならん[追記す。この哥は、『新勅撰 集』大僧正慈円の詠なり]。」3)
「何れの年のことにや。林子より『四席懐石誌』
と標せし書二巻を贈り、且云ふ。斯書は、御祖 先某君の輯する所。某君の茶事に高名なるは、 世普く所知なり。斯書、君故より所蔵ならん。 予曰ふ。名さへ未だ識らず。林子迺ち其書を示 す。見るに、其首に記して、松浦鎮信入道著。 蓋し後人の所書なり。されども小跋の末に、元 禄九子九月、鎮信と記せられしかば、正しく公 の輯作なり。其書体は、
○上巻 ●魚類之部 ○正月膳附の部 ○同汁の部 ○同煮物の 部 ○記伝に曰云云 ○二月膳附の部 ○汁部 ○煮物部 ○ 記伝に曰云云 ○三月膳附の部 ○汁部 ○煮物部 ○ 記伝に曰云云
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○四月 ○五月同上 ○七○八○九○十月 同上 ○十一○十二月同上
●吸物焼物取肴の部 ○春の吸物 三十種 ○肴部 二十種 ○ 焼物部 十種 ○取肴部 八種 ○夏吸物 十五種 ○肴部 七種 ○取肴 部 八種 ○焼物部 七種 ○秋吸物 十一種 ○肴部 六種 ○焼物 部 五種 ○冬吸物 十三種 ○肴部 九種 ○焼物 部 五種
●右弁記云云 ●追加 八種 ○下巻 ●精進の部
○正月膳附の部 ○同汁 ○同煮物 ○ 伝曰云云 ○二月同上 ○三月同上 ○四月○五六月 ○七月 ○八九月 ○十月○十一十二月同 上
●吸物肴取肴の部 ○春吸物 二十三種 ○肴 十四種 ○焼 物 八種 ○夏吸物 十三種 ○肴 十四種 ○焼物 四種 ○秋吸物 十三種 ○焼物 五種 ○肴 十種 ○冬吸物 十二種 ○肴 十二種 ○焼物 四種
●奥書、御跋なり。年号御名[其奥に、丙 辰十月十四日、栖止庵押。其人并年代、今 不詳之]。
前の元禄九年は、丙子にして、公年七十五。跋 に曰。世上通用の分如斯。此外吸物は、見立に 寄、有来物も、切形により、珍き作意品々可有 候。勘弁すべし。併、性の不宜物、かぼちや、 唐なす、薩摩芋の類、紅粉茸等、一切不用事也。 此外に性の不宜物、餅の類、料理に忌事也。人 の知たる物に而、風流を料理候事第一也。」然れ ば、かぼちや以下の三種は、性の不宜物と為ら れしなり。時と人と世歴の更れる観るべし。元 禄九年より、今天保八年丁酉に至て、一百四十
二年。又この表題を、四席懐石と名じ給ひしこ とは、四は四季にして、席は四季茶客の席を謂 なり。懐石は、会席の音通にして、これをの給 ふなり。但し、懐石の熟字、漢書所見なし。」34)
III 地域文化と地域開発 松浦静山の茶道観についての詳細な分析は他
日に譲るとしても、静山の茶道観分析から得ら れる日本文化・伝統文化ないしは地域文化のか たちは、地域開発のあり方を模索するさいの方 向性を提示するだろうと思われる。というのも 地域文化の発掘は、地域開発の根幹ともいえる ことだからである。
やや迂遠なようだが、ここではそうした地域 文化を探る手がかりとして「風流」という語を とりあげてみよう。静山は、「茶会と云もの、昔 は風流の一つなりしが、今は至俗のことゝなれ り」35)として、俗化した茶を嘆いている。「文武 は武家の二道にして、茶湯は文武両道の内の風 流なり」36)と、鎮信流茶道の流祖である松浦鎮 信は『茶湯由来記』で述べている。静山のいう
「風流」と鎮信のいう「風流」とのあいだにい かなる相違があるのであろうか。鎮信はつづけ て「さるによりて柔弱をきらふ。つよくしして うつくしきをよしとす」という。鎮信にあって は、「風 流」と は「気 構 え」「気 組 み」「潔 さ」 を意味し、静山にあっては、俗化しない「純粋 性」を意味しているのかと思える。さらには歴 史的蓄積もしくは伝統文化の「重厚さ」を引き 継いだ者としての実感が、静山の用いた「風流」 という語にはこもっているのかもしれない。と すれば、静山には、茶道の本道に帰れという原 理主義的方向性 fundamentalism が内在して いるともいえる。それは流祖への回帰であると みることもできる。鎮信は先の「文武は武家の 二道にして、茶湯は文武両道の内の風流なり」 の前段に「常に事を聞ならひ見ならひて、心に 会得し、格致するを専一とすべし。末に至ては こゝを忘れてなすべし。器には法有形在。たと ひあしたに器を製すとも、古法を用ざれば放逸
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松浦静山の茶道観― 地域マネジメントの視角から―
田 渕 幸 親
なり。しかれども法を用て法に縛せられず、い にしへをかんが見て、当意即妙の所を得むこそ ねがわしき事なれ」37) と書いているところから 推して、これから一大流派を構築する流祖とし ての心積もりを開陳したとみなすべきであろ う。原則を踏まえたうえで、その原則にとらわ れず「当意即妙」に対応するだけの技量をもた なくてはならないと鎮信はいう。その心積もり が、決意をみなぎらせた『茶湯由来記』を書か せたと理解することができる。創始した者と継 承した者との相違が「風流」に対する理解の違 いとして現れているのである。
いずれにせよ、佐世保地域の観光開発を考え るばあいに、「風流」はカギとなるであろう。と いうのも、この地域はかつての平戸藩に属し、 松浦鎮信や松浦静山を藩主としていたからであ り、最後の藩主松浦心月も藩主ではなくなった にかかわらず、鎮信流茶道の宗家としてこの地 域の人々に敬愛されつづけたからである。この 地域の人々にとって松浦家は格別の意味を持ち つづけた。その中心をなすのが「風流」の思想 であったとみることもできる。
おわりに
現代社会は、効率と利便性を求めて巨大化 し、科学技術と市場原理の前で「風流」などは 風化したかにみえる。「無駄」は徹底的に排除さ れ、効率的で幾何学的な直線イメージが支配的 となった。そうした無駄のない明るい空間のな かで、社会的病理は徐々にしかし確実に侵攻し ている。「ランチメイト症候群」38) などという 言葉もうまれた。理解不能な事件も多発してい る。無駄のない明るすぎる空間のなかで、人々 は明るさに耐え切れなくなってきているかのよ うでもある。
今ほど無駄や余裕の必要なときはあるまい。 その意味で「風流」を顧み、伝統文化を見直す ことが必要であり、それらを根幹にすえた地域 のあり方を模索し、あるべき社会の方向性を検 討すべきときである。古くさいものとして放擲
されたものの意味を問わなくてはならない。伝 統的価値体系とのかかわりで地域づくり・地域 マネジメントを考えなくてはならないであろ う。
追 記
本稿は、国際観光学科共同研究「茶道・鎮信 流の歴史的展開に関する研究」(安部直樹・木 村勝彦・田渕幸親・嶋内麻佐子)の成果の一部 である。

1)安部直樹「大名茶の系譜―武辺の茶の統治機能 ―」『長崎国際大学論叢 第7巻』長崎国際大学 研究センター,207.
2)前掲安部論文,p.17. 3)前掲安部論文,p.14. 4)長崎県史編集委員会編『長崎県史 藩政編』吉
川弘文館,1973,p.485. 5)『長崎県史 藩政編』p.485. 6)『長崎県史 藩政編』p.484. 7)『長崎県史 藩政編』p.482. 8)『長崎県史 藩政編』p.482. 9)『長崎県史 藩政編』p.482.
また,『甲子夜話』には,久昌夫人の人となりに ついてつぎのような記述がある.
「久昌夫人は御身卑賤より出玉ひしが,御識 見の優れ玉へることは,おさおさ高貴にも劣 り玉はざること度々見聞しぬ.ましてや予を 教育なし玉へる洪恩は,海山にも比すべし. その中に予若年のとき,何人か作りし『謗草』 と云る写本ありて,古人は小松内府,楠正成 等,近くは恐多も神祖をも申上奉り,次では 松平信綱の類,凡そ賢哲と称する者は皆その 非を挙たり.予しばしばこれを待輩に読せて 聞しを見玉ひ,汝幼少なりと雖ども己が非を 知らず,賢明と称せる古人の非を云ふこと有 べからず.況や彼の非とする所,皆人を惑は すの説なり.自今再び見ること勿れとて,そ の書を取あげ玉ひし.又廿計にもなりける 頃,御物語の序に不図申せしは,女は江都優 り候へ.京師女よしと申せども,とかく江都 の方勝り候と申たれば,いやいや夫は心得違 ひ玉ふ.京師とて善きはよし.江都とて悪き
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はあしゝ.かゝる一偏の所存は為し玉ふなと 戒め玉ひける.今にして臆出すごとに慈訓の 忝き,涙催し侍るなり.」
松浦静山(中村幸彦・中野三敏校訂)『甲子夜話
2』平凡社,203,p.91. 10)西山松之助『西山松之助著作集 第1巻 家元
の研究』吉川弘文館,1982,p.327. 1)『西山松之助著作集 第1巻 家元の研究』p.
329. 12)『西山松之助著作集 第1巻 家元の研究』pp.
329?30. 13)『西山松之助著作集 第1巻 家元の研究』p.
329. 14)『西山松之助著作集 第1巻 家元の研究』p.
31. 15)松浦静山(中村幸彦・中野三敏校訂)『甲子夜
話1』平凡社,203,pp.107?108. 16)『甲子夜話1』pp.114?15. 17)『甲子夜話1』p.115. 18)『甲子夜話1』pp.231?232. 19)『甲子夜話1』pp.272?273. 20)『甲子夜話1』p.273. 21)『甲子夜話1』pp.332?33. 2)『甲子夜話2』p.51. 23)『甲子夜話3』pp.13?135. 24)『甲子夜話4』p.202. 25)『甲子夜話6』pp.263?26. 26)『甲子夜話続篇1』pp.223?24. 27)『甲子夜話続篇1』p.330.
28)『甲子夜話続篇2』pp.223?24. 29)『甲子夜話三篇1』pp.92?93. 30)『甲子夜話三篇1』p.93. 31)『甲子夜話三篇2』pp.290?291. 32)『甲子夜話三篇3』pp.191?193. 3)『甲子夜話三篇3』pp.193?194. 34)『甲子夜話三篇3』pp.242?243. 35)『甲子夜話1』p.332. 36)松浦鎮信『茶湯由来記』松浦素『茶道の心』(非
売品)所収,p.19. 37)『茶湯由来記』p.19. 38)香山リカ『若者の法則』岩波新書,202,p.60.
参考文献
1. 安部直樹「大名茶の系譜―武辺の茶の統治機能 ―」『長崎国際大学論叢 第7巻』長崎国際大学 研究センター,207.
2. 長崎県史編集委員会編『長崎県史 藩政編』吉 川弘文館,1973.
3. 西山松之助『西山松之助著作集 第1巻 家元 の研究』吉川弘文館,1982.
4. 松浦静山(中村幸彦・中野三敏校訂)『甲子夜 話1~6』平凡社,203.
5. 『甲子夜話続篇1~8』平凡社. 6. 『甲子夜話三篇1~6』平凡社. 7. 松浦鎮信『茶湯由来記』松浦素『茶道の心』(非
売品)所収,197. 8. 香山リカ『若者の法則』岩波新書,202.

松浦静山が平戸藩主になったときの料理献立

 安永4年(1775)の「成公御初入部平戸一式」は、家督相続後はじめてのお国入りの記録である。
成公(読み不詳)とは、のちに清と改名された9代藩主(松浦静山)のことである。藩主が初入国のときには、平戸へ着くとまずお目見がある。その前に御重を差し上げるが、それは休息の間または御寝間に置かれた。
 引渡三献の祝いが終了後のお料理は、三汁八菜であった。献立は下のとおりである。

  御重三段物一組
 一段  くしこ
     煮貝
     かまぼこ
     焼豆腐
     長芋
     ゆ□麩
     かんぴょう
 一段  干し菓子
 一段  赤羊羹(ようかん)

  引渡三献
   初献    御膳部白木具
小角        尺長御箸
  勝栗
同     熨斗(のし)三ツ土器  耳土器
  昆布
   二献
桔梗(ききょう)高立土器輪
  海月      尺長御箸
              餅
              くしこ
      高盛 御雑煮  くし貝
右 同           いものこ
  梅干          平かつを
               耳土器
   三献
桔梗高立土器輪
  鯣(するめ)
   五度土器輪      尺長御箸
     御吸物  笹小鯛
右 同
  数の子         耳土器
    長柄御銚子 加
小角
  勝栗         餅
 一段  赤羊羹

  引渡三献
   初献    御膳部白木具
小角        尺長御箸
  勝栗
同     熨斗(のし)三ツ土器  耳土器 
  昆布
   二献
桔梗高立土器輪
  海月      尺長御箸
              餅
              くしこ
      高盛 御雑煮  くし貝
右 同           いものこ
  梅干          平かつを
               耳土器
   三献
桔梗高立土器輪
  鯣(するめ)
   五度土器輪      尺長御箸
     御吸物  笹小鯛
右 同
  数の子         耳土器
    長柄御銚子 加
小角
  勝栗          餅
同     熨斗      くしこ
  昆布     御雑煮  くし貝
              いものこ
              平かつを
    御吸物  ひれ 
三方御土器
長柄御銚子
三方御取肴   巻するめ
        こんぶ
        大かつを

  引替御料理 陶膳塗木具
   本
        合作り鯛
        きす    塩鶏
生鱠(なます) くり 御汁 清松茸
        防風(せり科の多年草)
青ミ      大志竹の子
香の物        御食
   二
杉箱     大くしこ 御汁 松笠鯛
       箸預麩(ふ)  車海老
       葛(くず)たまり  ゆ
       みるくい
煎(いり)海栗(うに) 切かや
   三
地紙     かき鯛
 刺味    糸作りいせこ
       よりかつを  御汁 かいわりな
       えんす
       岩茸
  煎酒
   向詰  大小鯛
   引而(ひきつぎ)
一 煮物   巻半弁
       重いか
       箱たまご
       丸なすび
       大椎茸
       さきとういも
       房山椒
一 木具引  大かまぼこ
       生干めばる
       ひばり色付
   御引盃
   御間酒
   御重肴  えび色付 青くし
      御吸い物  白玉
            ひれ
   嶋台   西王母  金銀御土器
   常の御銚子     冷酒
   押    いな穂  巻かため
 御茶菓子  葛(くず)まんじゅう
       にしめ川茸
       水くり   皮付き御ようじ
 後御菓子  ほっきょう餅
       にしき糖
       巻せんべい 皮付き御ようじ
 銘々御菓子 砂糖清三色 白御ようじ

松浦静山の武勇伝(辻斬り退治)

松浦静山の武勇伝

天保八年(1837)、九月十三日の夜のこと。
本郷湯島の大根畑にある、俗に「柳屋敷」といわれた松平新助正穀の邸宅に、月見の宴が開かれました。といっても、宴とは表向きのこと。実際は刀剣のオークションのようなことをする集まりだったようです。

列席したのは、のちに講武所第一期の教官として名を連ねた松平主税之介忠敏、二代目・浅利又七郎義明や、神道無念流の使い手・渡辺邦造、宝蔵院流高田派の槍術名人・志賀小太郎重則、不二心流の中村一心斎、”音無しの剣”の高柳又四郎といった、いずれも錚々たる顔ぶれでした。

集まった人物が人物だけに、いつしか話は武芸談におよび、ちょうどその頃、柳原土手に出没する不思議な老人のことが話題の中心になりました。それによれば、その怪人は、通りかかった剣客どもを一撃のもとに打ち倒し、失神しているうちに腰の両刀を抜き取ってしまうのだといいます。
皆、口でははっきり言わないものの、どうやら、同席している浅利又七郎や渡辺邦造が、その被害者のようでした。

浅利又七郎はのちに山岡鉄舟の師となる人物ですが、この頃はまだ二十一歳。剣聖の域にはほど遠かったでしょうが、すでに中西門の麒麟児として才能を知られているほどでしたから、老人のすごさが窺えるというものです。

誰かその怪人を倒せる者はいないかという話になり、なぜか高柳又四郎と中村一心斎はあまり乗り気でなかったといいますが、代わりに松平主税之介忠敏が、十九歳という血気ざかりのせいもあって、自ら老剣士退治を買って出ました。

志賀小太郎が介添え役として、後から付き従いましたが、主税之介は、ふらりと現れた老剣客の重藤の弓の一撃を食らい、あっけなく失神させられてしまいます。介添役の志賀小太郎も、ただ竹林のかげからその様子を窺うだけで、結局、老剣客に槍を向けることすらできませんでした。

やられたのはいずれも一流どころの剣客ばかり。しかも、得物が重藤弓とあって、一体、その老人は何者なのか?という噂が、剣客たちの間にさらに広まりました。
実は、このときの老剣客が、松浦静山だったのです。


松浦清 静山(まつらきよし せいざん)は、宝歴十年(1760)一月二十日、肥前の国平戸藩の世嗣であった松浦政信の長男として生を受けています。

父・政信は、本来なら平戸藩の藩主を継ぐはずでしたが、明和八年(1771)、若くして世を去ってしまい、そのために、静山は幼くして祖父・誠信(さねのぶ)の養嗣子として育てられることになるのでした。
そして安永四年(1775)、祖父の隠居によって、静山は家督を相続。平戸藩の第九代藩主となります。

若い頃は藩の財政再建と藩政改革に心血を注いだといわれていますが、文化三年(1806)には三男・熈(ひろむ)に家督を譲って隠居し、以降は執筆活動に従事したといいます。

『甲子夜話』などの著作が有名で、そのため、静山は、文学者としてよく知られていますが、実は剣も心形刀流の奥儀を極め、六代目を継ぐほどの名手だったのです。

藩主であり、文筆家でもあったため、他にこれといった武勇伝は伝わっていませんが、静山が柳原の土手で剣士を襲ったのは、実は老中・水野越前守忠邦の依頼により、この当時、柳原の土手によく出没した辻斬りを退治するためだったのです。

そして、松平主税之介が、柳原の土手で失神させられた同じ年の暮れのこと。
雑司ヶ谷鶉山のとある邸宅で義士祭が行われ、再び前記の剣客たちが招かれましたが、その席には松浦静山も出席していました。

静山はその席で挨拶に立つと、
「わたしは、いたずらに年齢を重ねて今年で七十七歳、年少から剣を岩間鴳斎常稽子に学んで六十余年にもなるが、この歳になってようやく天命というものを知り、今年限りで剣を筆に変えようと思っている。今日はその記念として、皆さんにいささか贈り物をしたい。粗品ではあるが、当邸辞退の際に、お持ち帰り願いたい」
 と言って、渋紙に包んだものを渡したといいます。

それはなんと、柳原の土手で静山に弓の一撃をくらって失神させられ、奪い取られた刀剣ばかりでした。剣を渡された諸氏はみな、苦笑しながら帰っていったといいます。

ちなみに、静山の著作・『常静子剣談』および、『剣攷』は、宮本武蔵の『五輪書』や古藤田勘解由左衛門の『一刀斎先生剣法書』に並んで、日本の三大剣法書の一つとされています。

武勇伝が他にないのは残念ですが、殿様の身にありながらここまでの域に達した松浦静山に、深いため息をついてしまう今日このごろであります。

(インターネット ホームページより転載)

甲子夜話 25巻-1 イギリス船、浦賀港へ

 今夏イギリス船が浦賀港へ来たりしこと第十四巻に記せり。このごろ知約堂の主人が筆せる『異船記聞』という一冊をその人より示めせりとて、蕉堂の主人が予に転借す。

 仍(よって)侍者(従者)に騰録(写筆)せしめて第二十四巻に次ぐ《知約堂の主人は井上佐大夫なり。御鉄砲方、布衣(ほい:六位相当の叙位者)九百石。予も先年に一面識なり》。


  題 言
 およそこの書に記せるは、予が相州(相模の国)の浦賀に滞在中、平根山の御備場(おそなえば:奉行所)に勤番(勤務)する銃手、および浦賀銃伍長、銃手など、あんげりあ(イギリス)舶来の最初より、滞在船中のかの船に輪番見回り警固などせる者、見聞きする処の話談を聞くにしたがいて、すぐに筆記し、および予が目撃するものを合わして筆記す。ちなみて前後に繁雑なれども、この書あえて地方に播布(広め配る)するものに非ざれば再校せず。かつその説は見聞によって一定ならざるあり。

 これに加えてイギリス船長の説のみにはあらず、船夫、下僕の説話多きゆえ、足立なにがし、馬場なにがし等が筆談通訳の趣とは相違のこと多く、必ず証しとすべきには非ざれども、人々が見聞せしこと、かつ予も目撃するところ異聞もあれば、見聞くままに随筆せるなり。
一、足立、馬場両人は筆談通訳の次第、予もほぼ聞き及びし事はこの書の中に雑記す。しかれども彼らが直に話を聞かざるゆえ、これまた伝聞の誤り多かるべし。
 文政壬午(みずのえうま)年(1822年)五月  知約堂主人識

『異船紀(記)聞』
一、文政五年四月二十九日の昼九時(正午0時)頃、異船一艘、房州(安房の国)の沖合に見ゆるよし、浦賀へ注進(報告)あり。夫より追々注進ありて、八時頃に海獺島あたりまで䑺(帆船)寄せ、八半時(午後3時)頃、平根山下の沖合に着船せしよし注進あり。ちなみてその事に関われる者、一番手、二番手各船に乗り組み、かの船に漕ぎ寄せ、兼ねて設け置くところの縄梯子を伝い、異船に乗り移り、手真似、仕形をもって何れの国より来るやと問いければ、エウローパインギリスと云う《これエウローパ、インギリスという語音、早口にして聞き分けがたしと云う。案ずるに蛮人はすべて唇、舌の二音のみにて、喉、歯、牙の三音なく、五音備わらざるゆえ(聞き分け)難きもよしなり。唐山(中国)は勿論、本邦(日本)は小国といえども五音備われり。上国(統治国家)たる所為(ゆえん)なり》。
 また江戸の方を指さしエドと云うて大指を挙げ、江戸の方に進路をとり、䑺(帆船)通らんと欲す。よってこの方よりも大指を挙げ、浦賀の方を指さし、浦賀に奉行職の人が詰めている手真似をなし、異船をこの地に留めんことをはかり、三本帆柱の帆を巻かせ、碇を投入、そのむね奉行出張場へ注進す《この事について種々の雑説あれども、その事を詳しく記さんには繁冗(複雑)に渉(わた)るゆえ此れに載せず》。

 この辺は沖合にて、久しく船が掛かるべき場所に非ざるゆえ、先年かの国の船が渡来のとき、船が掛かりせし浦賀港の入口、灯明堂(灯台)と鴨居観音崎との間、およそ三十町(約3.3km)あまりの場所へ引き船をもって引き入れ、この処に碇を下さしむ。その事、奉行よりさっそく江府(江戸幕府)へ注進(報告)あり。また上総竹か岡へも申し遣わし、白川公の人数、さっそく浦賀へ出勢警固す。小田原、川越の両公へも出勢を申請し、五月三日昼時ごろまでに両家の人数おいおい到着し、白川と三手の人数、番船にて異船を取り囲み、法螺(ほら貝)を吹き輪番警固す。異船の回りほど近き場所は、浦賀組の者が番船にて輪番警固し、あるいは異船に乗り移り、見回りなど昼夜怠慢なく勤番す。三手の人数、番船数十艘、各家々の船印、兵器を飾り、堂々整々なり。平根山、下田山、台の山、向路竹か岡四ヶ所にて昼夜烽火(のろし)を焚き厳正なることなり《この事に付き議論あれども、そのこと繁冗なればここに載せず》。

 さて、本月四日昼時ころに、江戸より足立左内、馬場佐十郎は通訳のため浦賀へ着す。夫よりおいおい通訳ありて、異人舶来の実情が相分かり、異人の願い通りの諸品下し賜るによって、本月六日より帰船の支度をなし、順風を待ち居るところ、同八日は順風ゆえ、昼九時過ぎに浦賀港を出帆す。見届けとして、房州の洲之崎あたりまで浦賀組の者出船せしところ、黄昏の頃、洲の崎より未の方角(南西微南)に進路をとり、夫より相模の国布良沖一里ほど隔東の方角へ帆船行き、帆影も見えなくなるよし、浦賀へ注進ありしと云う。
 イギリス人通訳の趣、伝聞せし件々(あのことこのこと)、左に記す《予はその人々の直話を聞かざるゆえ、伝聞の誤り多かるべし》。

           (133ページ途中より)

一、船中に大筒二挺あり〔図、下に出す。○案ずるにオランダにてカノンと云うは大砲の総称にて、短きをヘルトスランカと唱えるは、恐らくは比類なるべし。
 また案ずるに、アンゲリア(イングランド)、古(いにしえ)はスコットランド、イールランドと三国なりしに、今は一国となり、総名をゴローラリタニヤ(グレートブリタニア)と呼び、西洋の一大島にして、大きさ日本に比すべし(匹敵するだろう)。
 北極出地五十度より五十八度(北緯の意)に及ぶ。彼の国の大砲は銃尾と銃球との中間肥大にして、その球の形、かぶの根の平な円なるものを見るが如く、その球は輪を重ねたるが如しと。この大砲右の説に彷彿たり〕。

 筒の長さ四尺二寸二分(約127cm)、銃の口径五寸(約15.2cm)〔オランダ尺にて五トイムに当たる。一トイム本邦の一寸(約3cm)に当たるなり〕。

 玉は生鉄にて径四寸八歩(約14.5cm)あり。本邦の玉透定法(玉透:筒と玉の隙間)より一分(約3cm)余も透が多く、そのうえ尺も短きゆえ玉業も本邦の大筒には劣るべし。

 径四寸八歩の鉛玉にては、この方の斤目五貫目(約18.75kg)なれども、生鉄玉ゆえこの方の斤目三貫三百目(約12.37kg)余りに当たるなり〔オランダの法馬(ほうま:分銅)にて二十六ポンド(約11.8kg)強なり。一ポンドは本邦の百二十八銭(約0.454kg)に当たるなり〕。



  ・・・(以下、12ページにわたり挿絵付きで記帳あり)

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松浦静山の「甲子夜話」(かっしやわ)を、中学生の素読のために噛み砕いていますが、そうろう調をそのままにしています。

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