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甲子夜話 三篇 35巻-12 速飯、急糞、迅走

 世の諺に、士(さむらい)は、速飯(はやめし)、急屎(はやぐそ)、迅歩(はやばしり)と云うが、いかにもさも有るべし。
 予が躬(みずから:自ら)のうえにて云はんに、蚤(早)くより歯が落ちたれば、喫食速くならず。遅々時を移す(遅々として進まない)。
 また痔を患ふれば、厠(かわや)に往(ゆき)ても在ること長し。
 また歩行も、その疾(はやさ)をもって迅(迅速)なること能(あた)わず(できない)。
 これらは泰平の今、憂うともせず。されども日時に、遠祖公 法印殿(初代平戸藩主)の朝鮮在陣の記事を観るに、いかなれば七年の間、克(よく)も(克己して)月日を過ごし給いし。羨ましくも、慕わしくも、渇仰(かつごう:仰ぎ慕う)の念は絶えず。
 また彼の三条のことは、故武、加藤清正が云いしことも有りと聞く。何の書にか載りたる、今知るに由(いわれ:由来)なし。
 また就かぬことなれど、小笠原逸阿〔当時の歌人〕が、小川町に往(ゆき)し頃、隣宅が失火せしこと有り。そのときの口ぐさみに、

  隣なりける家より火いでて、
  栖(す:巣)を走りのがるるとて、
                 逸阿

飛ぶ火のの野焼けふりの風さきに、かくろひ(隠れ)かねてたつ雉子(きじ)哉(や)。




     松浦静山のボキャブラリーが際立っています
     早いという漢字がいくつ出てくるか?
     探すだけでも、楽しい・・
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甲子夜話 三篇 69巻-3 続イギリス夢物語

  前に記録せし、追記、また残滴。

○(長崎)天保十一年(1840年)の、紅毛風説書。

一、今年日本に来たオランダ船一艘、六月九日ジャカルタ出帆仕り、海上は別状無し、今日ご当地に着岸仕り候。右一艘これ外国船に御座無し候。

一、去年ご当地より帰帆仕り候の船、十一月十日海上滞り無くジャカルタへ着船仕り候。

一、ロシア国嫡子アレクサンドル・ニコラヲウィッツがオランダを通行し、その節オランダ国王の方へ見舞いに立ち寄り申し候。

一、イギリス国王の娘フィキトリヤといへるを、女王に立て申し候。

一、イギリス国王の嫡子、ウユテンブユルグ(国名)の王女ソフィアと縁組仕り候。

一、トルコ国帝辞世仕り、嫡子位に即位し申し候。

一、右イギリス国の女王、サクセンユーブユルグゴッター(国名)の王子を聟(むこ:婿)となし候。

一、オランダ国支配の東インド奉行(長官)エーレンス病死仕り、デンカラーヘフワンホーゲンドルプを跡役に相成り申し候。

一、スペイン国の一揆静まり、そのおり立てし候の荷受人ども離散仕り、当時頭だったドンカルロスはフランス国に逃亡申し候。

一、右申し上げ候ほかは、インド周辺相替え候の儀、御座無し候。

一、台湾あたりにおいては、唐船(中国船)七艘を見かけ候へども、ご当地通商の船には御座無し候。かつ又右のあたりにヨーロッパ州の船を二艘見かけ申し候。

右の通り、船頭揃えてオランダ人申すゆえ承り、申し上げ候。
               カピタン エデユアルトガランデソン
右の通り和解さし上げ申し候。
              七月一日  本木昌佐衛門 石橋助十郎
                    中山作三郎  堀 専次郎
○(武城)九月二十二日。表出御、御白書院。
        西丸御表向御譜請御用仕廻候
          時服十五(朝廷勤務)      松平出雲の守

        上使品川豊前の守
          綿三百把(たば:束)二種一荷  東本願寺門跡
  
右西丸普請に付き、檜材金箔差し上げ候に付き、これ遣わしこうむる。










甲子夜話 三篇 61巻-9 水戸黄門より召されしこと

 水戸黄門より召されしこと

(目次)水戸黄門〔斉昭卿〕より〔信州当公、野州老公と三人〕召されしこと。
○へちまの皮のだん袋等の雑話 ○予が容貌を賞せられしこと ○天祥公(松浦鎮信)の挟み箱御覧並び図を成さしめられること〔その図〕、三人の肖像を画(描)かせられること。

〔九〕 水戸黄門〔当公 徳川斉昭(なりあき)卿〕より召還ありて赴きたるに、かれこれの雑談せらるる中、仰せ給うは、世に、「へちまの皮のだん袋」ということは、古人は、馬皮をもって袋を造り、この内に諸物を納(い)れたるなり。
 ちなみて人に対しては、暼馬(へちま)の皮の団嚢(だんぶくろ)と言いしことなりと。珍しき御言葉を聞きし也(なり)。

 またその日は同客と三人なりしが、幸いと知己の人々にて、切磋(せっさ:努力を重ねる)の物語せし中、両客の話を傍らより聞くに、頃日(このごろ)参政(奉行)某公の愛妾(あいしょう)、何か子細ありて、その部屋の婢(ひ:下女)より、小刀をもって突き殺されしと。

 そのゆえはこの妾 寵溢(ちょういつ:寵愛)のあまり、参政支配の諸氏より賄(まいない:賄賂)を受けし抔(など:等)、それのみならず、牝難(ひんがた:女には困難)のゆえん数々ありて、彼の家の諸臣臥(ふ)せざりしが、実は誰人か主君のために刺客を含めしと。
 またこの婦(女)、かの妾の下女と云うにもあらずして、彼の参政の臣(奉行)が娘、所謂(いわゆる)部屋子と云うものにて、寵妾なれば従い置きしが、然ることに及びしなど、またその殺害の後、かの女の認めし書き置きの文、二尋(ふたひろ:3m)ばかりなるも有りしなど。

 当日退散のとき、厚く恩恵を謝して去りしが、明日もまた使用人を遣わして前事を謝し申せしに、多(長)年懇意にしている同胞〔運阿弥〕が、使用人に語りし旨を左(次)に記録す。
 またその日に謁見(えっけん)せし後、再び三人と小室に召されて、側(かた)わら近く進みたるに、公(斉昭卿)宣(のたま)わく。
 静山汝(なんじ)が頭髪は実に偉相(優れている)とす、賞すべしと有りしが、明くる日に同胞が言には、昨日の静山が容貌、法躰(僧)にあらず、また俗客にあらず、奇(珍し)とす。大いに好(よろ)し。

 また宣わく。渠が面(頭目の顔)胸を観察するに、何か一物ある者也(なり)。聞きしに違(たが)わず、武徳備わる漢(男)也。
 昔 朝鮮の役(文禄・慶長の役:1592年)、彼の祖 法印(松浦鎮信)が事を聞く。今 渠(頭目)を見るに、その子孫と云うて恥じざるべし(恥ずかしくない)と。予は聞きて歓息(歓喜の心)、夢の未だ覚(醒)めざるがごとし。ちなみてその真を子孫に残す。

 この日は公(斉昭卿)喜歓増しまして、各退帰は夜間に及べり。また御興(関心事)には、三人の肖像を画(描)かせ給わん迚(とて)、画臣(家)なる右膳と云う者をわざと召し出され、自ら燭(しょく:灯)を剪(せん:切り揃え)給いつつ、描くを傍観あり。
 侍臣(じしん:家来)もまた相連なりて共に観る。傍(そば)に昭君(あきぎみ)が胡王に下さるのさま也。
 一人は信州の当公(現藩主)、一人は野州(やしゅう)の老公、予と倶(とも)に皆 写真(写生)を成し、公(斉昭卿)その評論ありて、笑語(笑い声)相交じる。子孫とそうらえども、斯(か)くのごときは未(いま)だ有らざるの栄冠。

 また思い出したれば、その夜の御物語の中の申すは、今日持たせたる挟み箱は、高祖 肥前の守〔鎮信〕が、勤務せしとき従えし挟み箱、拙(つたない)寺に納め有るを、某(なにがし)模倣し造りて、貴邸(高貴な邸宅)などに参上するには、供に従えぬと云いたれば、取り寄せよ見給わん迚(とて)、御前へ取り出し、丁寧に、自ら打ち返し打ち返し見給いつつ、画臣(家)に仰(おっしゃ)りてその図を成さしめ、公家へ留まらる。

 されば天祥公(鎮信)の御名前、水府(水戸蕃)の御家に永く伝えしこと、祥公の御遺徳、賢くも、芽出多久(めでたく)ぞ、喜び思いぬ。

天下の三勇士
 *信州(肖像画の中央)松代藩主・真田幸貫(さなだゆきつら:49歳)。
 *下野国(肖像画の左側)黒羽藩主・大関増業(おおぜきますなり:59歳)。
 *第九代 平戸藩主(肖像画の右側)松浦静山(まつらせいざん:80歳)。

 三人の肖像画を描いたのは、水戸藩士・内藤業昌です。







甲子夜話 三篇 61巻-1 イギリス夢物語-1

  イギリス夢物語-1

 前冊(三篇60巻-6)の封廻状のことを云いて、渡辺某が云々(うんぬん)の次に、高野という者の記せる『夢物語』、その書を見たく思いたるに、幸いにも朝川鼎(あさかわ かなえ)が伝写の者を得て、ここに移す。
 その書記者を出さざれども、『戊戌(つちのえいぬ)夢物語』と表題し(戊戌は、天保九年=1838年也)、終りにその冬十月夷日の明日と云う。しかれば今年の前年なり。
 かかるに、今日に至りて一抅(かかずらい)事なし。己亥(つちのとい:1839年)の十一月二十六日戌時(いぬどき:夕方4時頃)識(記す)。

  『戊戌(つちのえいぬ)夢物語』
 冬の夜の深まりゆくままに、人語も漸(ようやく)に聞こえ、履物の音もまれに響き、つま戸にひびく風の音すさまじく、いと物すごきに、もの思う身は、ことさらに眠りもやらで、ひとり机によりかかり、灯(あかり)をかかげて書を続けるに、夜いたく深ぬれば(深くなれば)、いつしか目も疲れ気も倦(あぐ)ねて、夢となく幻となく、恍惚たる折りふし、ある方に招かれ、いと広き座敷に至りければ、硯学鴻儒(硯学:けんがく:大きく深い学問、鴻儒:こうじゅ:儒教学者)とおぼしき人々、数十人集会し、色々の物語りし侍(はべ)りける。

 その内に、甲の人、乙の人に向いて言いけるは、近来珍しき噂を聞きたり。イギリス国のモリソンというもの、頭(かしら)となりて船を仕出し、日本の漂流人七人を乗せ、江戸近海に船を寄せ、これを餌として交易を願う由(よし)、阿蘭陀(オランダ)申し出で候(そうろう)となん。
 そもイギリスという国は、いかなる国に候や。乙の人、答えけるは、イギリスと申す国は、阿蘭陀の北にあたる島に候。阿蘭陀の王都(首都)アムステルダムと申すところより、海上百十六里(464km)ばかり隔たり、順風の時は、一日一夜くらいにても、船が通用いたす所にて、国の大きさは日本ほどもあるには候(そうら)えども、寒い国ゆえか、人数は日本よりは少なく、総括して人口一千七百七十万六千人と申し候。
 国民は敏捷(びんしょう)、諸事に勉強して倦怠せず、好んで文学も勤め、工技を研究して、武術を錬磨し、民を富まし、国を強くするを先務と仕り候て、浜海、浅瀬暗礁多く、外冦(侵略)入り難く候に付き、近来エウロッパ(ヨーロッパ)大乱のときにあっても、イギリス孤立して、国民千丈(せんじょう:大規模の)の災を免れ申し候。

 首都ロンドンと申すところは、至って繁昌の所にて、街坊美麗(がいぼうびれい:街並が美しく)、人戸稠密(じんこちゅうみつ:人口密集)にて、人口凡百万人ばかりも居候よし。海運の都合が宜しい所にして、もっぱら諸方に交易をいたし、諸国に航海つかまつり、不毛(の土地)を開き、人民を蕃殖(繁殖)し、夷人(いじん:原住民)を教導して、これを服従つかまつり、ここに至り候ては、外国領分の人数は、七千四百二十四万と申し候。

 左そうらえば、本国の四倍にもいたり申し候。その国々の名は、一つは北アメリカと唱え候て、南アメリカの西側に御座(ござ)候(そうろう)。
 二つは西印度と名付け候て、南アメリカと北アメリカの間のあたりに、これ有り候。
 三つはアフリカ洲の内にて、天竺(てんじく)の南西にあたる所に候。
 四つは新阿蘭陀と申して、日本の極南にあたる内を領し候。
 五つは南アメリカと申し候て、フラシーイ(国名)、ゴイネア、カルホルニア辺りにて、日本の東にあたる所に御座そうろう。
 六つは天竺の内モンゴルと唱えそうろう国の内にて、雲南、暹羅(シャム:タイ)の南に御座そうろう。
 七つは東天竺と申し候て、日本近海の南の諸島、無人島近所より南の島に御座そうろう。以上の国々、それぞれ緒役人どもを差し向け、支配仕りなり候ゆえ、その者共の乗りそうろう船は軍艦にて、一艘に石火矢四・五十づつ備え候ものを造り、差し遣わし候よしに御座そうろう。

 船の数は二万千八百六十艘と申し候。その船に乗り候の上役人は、都合十七万八千六百二十人、下役人は、四十万六千人、水主(夫)、崑崙奴(こんろんど:黒人)、炊奴など取り集め、総括百万人ほどは有り得るべし、誠にもって広大の事に相聞き申し候。

 右ゆえ、自然と航海の術に水軍は、ことのほか熟練つかまつり候。外国へ出帆のところ、次第に広大に相なり、交易の道も漸々(ぜんぜん:しだいに)旺盛に相なり、凡五大洲中頭駢これ無きように相なり候に付き、諸国のもの共これを恐れ羨(うらや)み申し候ゆえに御座そうろう。
 

甲子夜話 三篇 9巻-3 男あらための珍事

 男あらための珍事

 先年、予が中の武士 柴田要四郎と云う者〔この先祖は柴田勝家とす。後の孫なにがしの処に在りしを、天祥公(松浦鎮信)招いて臣下とす〕、いまだ少年にて前髪有りたるが、江戸へ出府する人に従い行く道中、箱根の御関所に至り通らんとす。

 あらための老婆出て、御法度(ごはっと)なれば男女をあらためんと云う。要四郎不平なり。
 老婆まずその髪を視ると云う。要四郎不平なり。
 婆(ばばあ)また乳房を視ると云う。要四郎不平なり。

 されども婆(ばばあ)髪と乳とを視る。ときに要四郎恚色(いしょく:憤慨)を発し、両手に高く衣の前をまくり、陽物(ようぶつ:男根)を露呈し、婆(ばばあ)これでも男でないかと声高に言いければ、老婆もあきれて、若様に相違いなく候(そうろう)と答えたれば、要四郎後をも見ずして、意気揚々として行き過ぎける。

 この体(てい)を見て、御番所を衛(まも)る者より旅行の輩(やから)まで、一人も笑わざる者無かりしと。



 *本当にチン事だったようです。






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Author:rousseaujj2
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松浦静山の「甲子夜話」(かっしやわ)を、中学生の素読のために噛み砕いていますが、そうろう調をそのままにしています。

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